『ガルム・ウォーズ』を観る。

ようやく、公開された『ガルム・ウォーズ』を観ることが出来た。映画祭に足を運ぶことが困難なファンにとっては、二年近くもまんじりとしない日々(というのは大げさだけど)を堪え忍ぶことになったわけだし、年季の入った押井ファンなら前世紀からの宿願である。ようやくと強調しても罰は当たらないだろう。ガルムを待望していた伊藤計劃ももって瞑すべし、と言うと罰は当たるだろうか。

とはいえ、前世紀に公開されるはずだった幻の映画と、本作とのあいだには当然埋めがたい懸隔があるだろう。うるさがたの熱狂的なファンほどその懸隔を大幅に見積もり、未だ見ぬ自らの理想の押井映画のビジョンを夢想して、愛憎極まって本作をこき下ろしてしまうかもしれない。

僕自身、雄大な風景の中をさまよう登場人物たちを眺めながら考えていたのは、こういった余白を残しすぎた広大な世界図を見せられるよりも、『パトレイバー2』や『攻殻』のような、象徴を重ね合わせた緻密な都市像の方が遥かに深みも広がりも感じられるなあ、ということだった。

しかし世界にノイズが少なく骨格が透けて見える分、監督が抱え続けている原風景が前面に顕れているとも言える。この映画は意外なほどに、『天使のたまご』を想起させる。押井守の原風景が凝縮されたような、あの異形の作品に。

天使のたまご』の世界観で『スカイ・クロラ』をやっている、と言えばものすごく乱暴なまとめ方だが、押井ファンに内容を説明するならこの言い方が一番伝わりやすいんじゃないだろうか。
(押井ファンなら説明されるまでもなく内容を承知だ、というツッコミは措くとして)

神々は何処かに去ってしまい、残骸だけが静謐に沈む世界で、争いを続けながら苦悩する、未来を閉ざされた人々。その世界からの解脱を希求する主人公。いつも通りといえば、いつも通りの世界観である。生涯同じ歌を歌うのが作者の常というなら、その点は『ビューティフル・ドリーマー』の頃から一貫していると言える。そして、映画としての完成度や訴求力を考えるなら、本作はたぶんそれらの過去作を越えるまでの魅力は獲得していない。

ただ、本作を観ているとき、終盤に向かうにつれて、本当に「何か」が降臨するのではないかというゾクゾクするような予感を味わった。それはこの暗憺たる新世紀になってもまだ同じ歌を歌い続けているその監督の姿勢が、本作における解脱への希求をひときわ苦く切実なものに感じさせたからかもしれない。

映画のストーリーに従って、実際にラストでは「神の使い」ともいえるものが降臨する。しかしそれよりも、終わりに近づく旅の過程で感じさせられたこの泡立つような予感こそが、この映画に息づく最大の魅力だと僕には思えた。

スタッフロールで流れる素晴らしく荘厳で神秘的な歌を劇場の暗闇の中で聴きながら、この映画を待った甲斐は確かにあったと、いち押井ファンとして満たされた気持ちに浸ることが出来た。